2015年6月2日火曜日

元ドルヲタ、現アニヲタとしての、アイドルアニメ論。

もしくは、アイマスとラブライブとWake up girls!とろこどるの立ち位置の違いについて。
さすがにアイカツとかプリパラとかきらりんレボリューションとか混ぜられると、
おっちゃんわからん。

まず、現代における「アイドル」というものを正確に定義すること自体が難儀であって、
それはこの文章における本題ではないのだが。

ある時代の大衆芸能における、絶対的人気を誇る芸能者
(芸能者としての「アイドル」の原義的意味)
となるためにデザインされた一種の表現様式
(いわゆる80年代アイドルの類型)
を、踏襲する存在。

ということになってしまうのだろうか。
要するに「踏襲すること」が少なからず目的化していて、
80年代アイドルのように事務所とレコード会社とテレビ局という
メディアコンプレックスの中である程度成功が約束されていた、
文字通りの偶像とは構造的に異なる。

もっとも、当時の「アイドル」も、活動期間から見れば現代のそれに比して
絶対的に成功していたといえるかは疑問なのだが。

現代の「アイドル」は、必ずしも成功しない。
自作自演の「アーティスト」が表現者としてのメインストリームになってしまった
現代においては、「アイドル」の表現様式は、いかにも弱い。

したがって、「成功が約束されたアイドル」は、
表現様式の面においても構造面においても、成立しえないことになる。

この前提に立つと、現代においてアイドルが売れてしまうことには、
虚構性が伴う、ということが言える。

現実の「アイドル」も、
半ば芸人みたいな立ち位置とか、常軌を逸したパフォーマンスであるとか、
生い立ちや内部闘争のドラマ化であるとか、別の付加価値でプロモーションを
成立させている事例が一般的である。
アイドルが単にアイドルとして売れる、ということは、もはや虚構なのだ。

ここでやっと本題なのだが。
アイドルをフィクションとして扱い、しかもサクセスストーリーとして成立させることには、
フィクションであることと、アイドルがアイドルとして売れる、という、
二重の意味での虚構性を克服する必要がある。

さて。
近年の深夜アニメにおけるアイドルアニメの代表例を考える。

「ラブライブ!」
 「スクールアイドル」という架空の存在が「世間的に大人気」という前提が、
 前提として視聴者にフィクションであることを強く意識させる。
 登場人物に、いわゆる大人が極端に少ないのも、そのことを強く裏付ける。
 作詞・作曲・振り付けをすべてメンバーで賄う、ということ自体、
 いわゆるアイドルの表現類型とは異なっており、いわゆるアーティストのそれに近いことは
 ここでは見ないフリをする(笑)。

「アイドルマスター シンデレラガールズ」
 あの規模の巨大事務所がそもそもありえない。
 大手レコード会社と大手芸能事務所がくっつくと、あのぐらいの規模になるかもしれないけど。

「ろこどる」
「Wake up girls!」
 プレゼンテーションの仕方は異なるが、この2作品は
  ・そもそも大きな「サクセスストーリー」ではない。
  ・成功しているアイドルは別にいる。
  ・アイドルとスタッフ、ファンを含めた群像劇である。
 という3点において共通している。
 (Wake up girls!の方がより顕著だけど)

つまり。
前者2つのように、
「これはファンタジーですよ」と前置きしてサクセスストーリーを描く方法論と、
後者2つのように、
「アイドルの成功よりも周りの人を見てよ」と、
周辺をストーリーの中心に据えてしまう方法論が存在している、ということになる。


この場合には世間的な成功に代表される、いわゆる「大きな物語」とどう関わるかは、
ポスト・エヴァンゲリオンにおけるサブカルチャーの大命題であったわけだが、
この4作品の構造分析において、アイドルアニメという狭いフィールドにおいても
同様の構造が存在していることは、ここで明確にしておきたい。

むろん、そんな差異は表現における優劣を決定するものではないし、
もとより個人の作品に対する好悪をどうこうするつもりもない。

さらに、「大きな物語」とかかわる方法論はこの2つの類型に限定されるものではないわけで、
(「SHOW BY ROCK!」のように、サクセスストーリーの外部に別の大きな物語を
 配置する方法論もあるなあ、と思ったら、よくよく考えるとあれは「マクロス」だった(笑))
一視聴者兼たぶんサブカル残党としては、さまざまな表現類型の面白いものが出てくれば、
結局それでいいのである。

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